P--829 P--830 P--831 #1歎異抄    歎異抄 #2序  ひそかに愚案を回らしてほぼ古今を勘ふるに、先師(親鸞)の口伝の真信に 異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思ふに、幸ひに有縁の知識によ らずは、いかでか易行の一門に入ることを得んや。まつたく自見の覚語をもつ て他力の宗旨を乱ることなかれ。よつて故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に 留むるところいささかこれをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがため なりと[云々]。 #21 (1) 一 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて 念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづ けしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信 心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんが P--832 ための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏 にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐる ほどの悪なきゆゑにと[云々]。 #22 (2) 一 おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねき たらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためな り。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたる らんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあ やまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて 候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきな り。親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひ と(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まこと に浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべ るらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせ て、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、 P--833 自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候 はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびが たき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしま さば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈 虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならん や。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべから ず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、 念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり と[云々]。 #23 (3) 一 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねに いはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいは れあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひ とは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。し かれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報 P--834 土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなる ることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏 のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつ て善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。 #24 (4) 一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれ み、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、 きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大 慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、 いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲 始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべき と[云々]。 #25 (5) 一 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候は ず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづ P--835 れもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。わがちからにて はげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力 をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの 業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと[云々]。 #26 (6) 一 専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこ と、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わ がはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。弥陀の 御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめた る荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるる ことのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざる ものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがも のがほに、とりかへさんと申すにや。かへすがへすもあるべからざることな り。自然のことわりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべき なりと[云々]。 P--836 #27 (7) 一 念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天 神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずること あたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと[云々]。 #28 (8) 一 念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれ ば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひと へに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと[云 云]。 #29 (9) 一 念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄 土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、 申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにて ありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきこ とを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべ きこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろ P--837 しめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのご とし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。 また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、 死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よ りいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこ ひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをし くおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはま ゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふな り。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候 へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩の なきやらんと、あやしく候ひなましと[云々]。 #210 (10) 一 念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひ き。  そもそもかの御在生のむかし、おなじくこころざしをして、あゆみを遼遠の P--838 洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時 に御意趣をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて念仏申さるる老 若、そのかずをしらずおはしますなかに、上人(親鸞)の仰せにあらざる異義 どもを近来はおほく仰せられあうて候ふよし、伝へうけたまはる。いはれなき 条々の子細のこと。 #211 (11) 一 一文不通のともがらの念仏申すにあうて、「なんぢは誓願不思議を信じて 念仏申すか、また名号不思議を信ずるか」と、いひおどろかして、ふたつの不 思議を子細をも分明にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと、この 条、かへすがへすもこころをとどめて、おもひわくべきことなり。  誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたま ひて、この名字をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ 弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまゐらせて生死を出づべしと信じて、念 仏の申さるるも如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはから ひまじはらざるがゆゑに、本願に相応して実報土に往生するなり。これは誓願 P--839 の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の 不思議ひとつにして、さらに異なることなきなり。つぎにみづからのはからひ をさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さはり、二様におも ふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて申す ところの念仏をも自行になすなり。このひとは名号の不思議をもまた信ぜざる なり。信ぜざれども、辺地懈慢・疑城胎宮にも往生して、果遂の願(第二十願) のゆゑに、つひに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなはち、 誓願不思議のゆゑなれば、ただひとつなるべし。 #212 (12) 一 経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶ る不足言の義といひつべし。  他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏 に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このこと わりに迷へらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきな り。経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もつとも不 P--840 便のことなり。一文不通にして、経釈の往く路もしらざらんひとの、となへ やすからんための名号におはしますゆゑに、易行といふ。学問をむねとするは 聖道門なり、難行となづく。あやまつて学問して名聞・利養のおもひに住する ひと、順次の往生、いかがあらんずらんといふ証文も候ふべきや。当時、専修 念仏のひとと聖道門のひと、法論をくはだてて、「わが宗こそすぐれたれ、ひ との宗はおとりなり」といふほどに、法敵も出できたり、謗法もおこる。これ しかしながら、みづからわが法を破謗するにあらずや。たとひ諸門こぞりて、 「念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさし、いやし」といふとも、さら にあらそはずして、「われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの、信ずれ ばたすかるよし、うけたまはりて信じ候へば、さらに上根のひとのためにはい やしくとも、われらがためには最上の法にてまします。たとひ自余の教法すぐ れたりとも、みづからがためには器量およばざればつとめがたし。われもひと も、生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあ るべからず」とて、にくい気せずは、たれのひとかありて、あだをなすべき や。かつは諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべきよしの証 P--841 文候ふにこそ。故聖人(親鸞)の仰せには、「この法をば信ずる衆生もあり、 そしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることなれば、われはすでに 信じたてまつる。またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられ候 ふ。しかれば往生はいよいよ一定とおもひたまふなり。あやまつてそしるひと の候はざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらん ともおぼえ候ひぬべけれ。かく申せばとて、かならずひとにそしられんとには あらず、仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとの疑を あらせじと、説きおかせたまふことを申すなり」とこそ候ひしか。今の世に は、学文してひとのそしりをやめ、ひとへに論義問答むねとせんとかまへられ 候ふにや。学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存 知して、いやしからん身にて往生はいかがなんどあやぶまんひとにも、本願に は善悪・浄穢なき趣をも説ききかせられ候はばこそ、学生のかひにても候は め。たまたまなにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学文して こそなんどいひおどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。みづから他力 の信心かくるのみならず、あやまつて他を迷はさんとす。つつしんでおそるべ P--842 し、先師(親鸞)の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本 願にあらざることを。 #213 (13) 一 弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこ りとて、往生かなふべからずといふこと。この条、本願を疑ふ、善悪の宿業を こころえざるなり。  よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるる も、悪業のはからふゆゑなり。故聖人(親鸞)の仰せには、「卯毛・羊毛のさき にゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」と 候ひき。  またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあ ひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじき か」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、 「たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ 候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべ P--843 しともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふこ とをたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころに まかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころす べし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。 わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・ 千人をころすこともあるべし」と、仰せの候ひしかば、われらがこころのよき をばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけた まふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。そのかみ邪見におち たるひとあつて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばと て、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやう にあしざまなることのきこえ候ひしとき、御消息に、「薬あればとて、毒をこ のむべからず」と、あそばされて候ふは、かの邪執をやめんがためなり。まつ たく、悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。持戒・持律にてのみ本願を信 ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきやと。かかるあさましき身も、本 願にあひたてまつりてこそ、げにほこられ候へ。さればとて、身にそなへざら P--844 ん悪業は、よもつくられ候はじものを。また、「海・河に網をひき、釣をして、 世をわたるものも、野山にししをかり、鳥をとりて、いのちをつぐともがら も、商ひをし、田畠をつくりて過ぐるひとも、ただおなじことなり」と。「さ るべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」とこそ、聖人(親鸞) は仰せ候ひしに、当時は後世者ぶりして、よからんものばかり念仏申すべきや うに、あるいは道場にはりぶみをして、なんなんのことしたらんものをば、道 場へ入るべからずなんどといふこと、ひとへに賢善精進の相を外にしめして、 内には虚仮をいだけるものか。願にほこりてつくらん罪も、宿業のもよほすゆ ゑなり。されば善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願を たのみまゐらすればこそ他力にては候へ。『唯信抄』にも、「弥陀、いかばか りのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべ き」と候ふぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ 信心も決定しぬべきことにて候へ。おほよそ、悪業・煩悩を断じ尽してのち、 本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかるべきに、煩悩を断じな ば、すなはち仏に成り、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさ P--845 ん。本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩・不浄具足せられてこそ 候うげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりとい ふ、いかなる悪かほこらぬにて候ふべきぞや。かへりて、こころをさなきこと か。 #214 (14) 一 一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと。この条は、十悪・五 逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして、命終のとき、はじめて善知識のをしへ にて、一念申せば八十億劫の罪を滅し、十念申せば十八十億劫の重罪を滅して 往生すといへり。これは十悪・五逆の軽重をしらせんがために、一念・十念 といへるか、滅罪の利益なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。その ゆゑは、弥陀の光明に照らされまゐらするゆゑに、一念発起するとき金剛の信 心をたまはりぬれば、すでに定聚の位にをさめしめたまひて、命終すれば、 もろもろの煩悩・悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまふなり。この悲願ま しまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、 一生のあひだ申すところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を P--846 謝すとおもふべきなり。念仏申さんごとに、罪をほろぼさんと信ぜんは、すで にわれと罪を消して、往生せんとはげむにてこそ候ふなれ。もししからば、一 生のあひだおもひとおもふこと、みな生死のきづなにあらざることなければ、 いのち尽きんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることな れば、いかなる不思議のことにもあひ、また病悩苦痛せめて、正念に住せずし てをはらん、念仏申すことかたし。そのあひだの罪をば、いかがして滅すべき や。罪消えざれば、往生はかなふべからざるか。摂取不捨の願をたのみたてま つらば、いかなる不思議ありて、罪業ををかし、念仏申さずしてをはるとも、 すみやかに往生をとぐべし。また念仏の申されんも、ただいまさとりをひらか んずる期のちかづくにしたがひても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたて まつるにてこそ候はめ。罪を滅せんとおもはんは、自力のこころにして、臨終 正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにて候ふなり。 #215 (15) 一 煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。この条、もつ てのほかのことに候ふ。 P--847  即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一 乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就の さとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の通故なり。これまた易 行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。おほよそ今生においては、煩悩・悪障を 断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言・法華を行ずる浄侶、なほもつ て順次生のさとりをいのる。いかにいはんや、戒行・慧解ともになしといへど も、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬるものなら ば、煩悩の黒雲はやく晴れ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍 の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候へ。 この身をもつてさとりをひらくと候ふなるひとは、釈尊のごとく種々の応化の 身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益候ふにや。これ をこそ、今生にさとりをひらく本とは申し候へ。『和讃』(高僧和讃・七七)に いはく、「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護し て ながく生死をへだてける」と候ふは、信心の定まるときに、ひとたび摂取 して捨てたまはざれば、六道に輪廻すべからず。しかれば、ながく生死をばへ P--848 だて候ふぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや。あ はれに候ふをや。「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとり をばひらくとならひ候ふぞ」とこそ、故聖人(親鸞)の仰せには候ひしか。 #216 (16) 一 信心の行者、自然にはらをもたて、あしざまなることをもをかし、同朋・ 同侶にもあひて口論をもしては、かならず回心すべしといふこと。この条、断 悪修善のここちか。  一向専修のひとにおいては、回心といふこと、ただひとたびあるべし。その 回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまはりて、日ご ろのこころにては往生かなふべからずとおもひて、もとのこころをひきかへ て、本願をたのみまゐらするをこそ、回心とは申し候へ。一切の事に、あし たゆふべに回心して、往生をとげ候ふべくは、ひとのいのちは、出づる息、入 るほどをまたずしてをはることなれば、回心もせず、柔和・忍辱のおもひにも 住せざらんさきにいのち尽き〔な〕ば、摂取不捨の誓願はむなしくならせおはし ますべきにや。口には願力をたのみたてまつるといひて、こころにはさこそ悪 P--849 人をたすけんといふ願、不思議にましますといふとも、さすがよからんものを こそたすけたまはんずれとおもふほどに、願力を疑ひ、他力をたのみまゐらす るこころかけて、辺地の生をうけんこと、もつともなげきおもひたまふべきこ となり。信心定まりなば、往生は弥陀にはからはれまゐらせてすることなれ ば、わがはからひなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力を仰ぎ まゐらせば、自然のことわりにて、柔和・忍辱のこころも出でくべし。すべて よろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、ただほれぼれ と弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまゐらすべし。しかれば念 仏も申され候ふ。これ自然なり。わがはからはざるを、自然と申すなり。これ すなはち他力にてまします。しかるを、自然といふことの別にあるやうに、わ れ物しりがほにいふひとの候ふよし、うけたまはる、あさましく候ふ。 #217 (17) 一 辺地往生をとぐるひと、つひには地獄におつべしといふこと。この条、な にの証文にみえ候ふぞや。学生だつるひとのなかに、いひいださるることにて 候ふなるこそ、あさましく候へ。経論・正教をば、いかやうにみなされて候 P--850 ふらん。  信心かけたる行者は、本願を疑ふによりて、辺地に生じて疑の罪をつぐの ひてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまはり候へ。信心の行者すく なきゆゑに、化土におほくすすめいれられ候ふを、つひにむなしくなるべしと 候ふなるこそ、如来に虚妄を申しつけまゐらせられ候ふなれ。 #218 (18) 一 仏法の方に、施入物の多少にしたがつて大小仏になるべしといふこと。こ の条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。  まづ、仏に大小の分量を定めんこと、あるべからず候ふか。かの安養浄土 の教主(阿弥陀仏)の御身量を説かれて候ふも、それは方便報身のかたちなり。 法性のさとりをひらいて、長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・ 黒のいろをもはなれなば、なにをもつてか大小を定むべきや。念仏申すに、化 仏をみたてまつるといふことの候ふなるこそ、「大念には大仏を見、小念には 小仏を見る」(大集経・意)といへるが、もしこのことわりなんどにばし、ひき かけられ候ふやらん。かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし、いかに宝物 P--851 を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなば、その詮なし。一紙・半銭 も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の 本意にて候はめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋 をいひおどさるるにや。 #2後序  右条々は、みなもつて信心の異なるよりことおこり候ふか。故聖人(親鸞) の御物語に、法然聖人の御とき、御弟子そのかずおはしけるなかに、おなじく 御信心のひともすくなくおはしけるにこそ、親鸞、御同朋の御なかにして御相 論のこと候ひけり。そのゆゑは、「善信(親鸞)が信心も聖人(法然)の御信心 も一つなり」と仰せの候ひければ、勢観房・念仏房なんど申す御同朋達、もつ てのほかにあらそひたまひて、「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、一つ にはあるべきぞ」と候ひければ、「聖人の御智慧・才覚ひろくおはしますに、 一つならんと申さばこそひがことならめ。往生の信心においては、まつたく異 なることなし、ただ一つなり」と御返答ありけれども、なほ「いかでかその義 あらん」といふ疑難ありければ、詮ずるところ、聖人の御まへにて自他の是非 P--852 を定むべきにて、この子細を申しあげければ、法然聖人の仰せには、「源空が 信心も、如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も、如来よりたまはら せたまひたる信心なり。されば、ただ一つなり。別の信心にておはしまさんひ とは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」と仰せ候ひ しかば、当時の一向専修のひとびとのなかにも、親鸞の御信心に一つならぬ御 ことも候ふらんとおぼえ候ふ。いづれもいづれも繰り言にて候へども、書きつ け候ふなり。露命わづかに枯草の身にかかりて候ふほどにこそ、あひともなは しめたまふひとびと〔の〕御不審をもうけたまはり、聖人(親鸞)の仰せの候ひ し趣をも申しきかせまゐらせ候へども、閉眼ののちは、さこそしどけなきこ とどもにて候はんずらめと、歎き存じ候ひて、かくのごとくの義ども、仰せら れあひ候ふひとびとにも、いひまよはされなんどせらるることの候はんとき は、故聖人(親鸞)の御こころにあひかなひて御もちゐ候ふ御聖教どもを、よ くよく御覧候ふべし。おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候 ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞) の御本意にて候へ。かまへてかまへて、聖教をみ、みだらせたまふまじく候 P--853 ふ。大切の証文ども、少々ぬきいでまゐらせ候うて、目やすにしてこの書に 添へまゐらせて候ふなり。聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の 願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほど の業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかた じけなさよ」と御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこ れ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転して、 出離の縁あることなき身としれ」(散善義)といふ金言に、すこしもたがはせお はしまさず。さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪 のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、 おもひしらせんがためにて候ひけり。まことに如来の御恩といふことをば沙汰 なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。聖人の仰せ には、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御 こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにて もあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをし りたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、 P--854 みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまこと にておはします」とこそ仰せは候ひしか。まことに、われもひともそらごとを のみ申しあひ候ふなかに、ひとついたましきことの候ふなり。そのゆゑは、念 仏申すについて、信心の趣をもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、 ひとの口をふさぎ、相論をたたんがために、まつたく仰せにてなきことをも仰 せとのみ申すこと、あさましく歎き存じ候ふなり。このむねをよくよくおもひ とき、こころえらるべきことに候ふ。これさらにわたくしのことばにあらずと いへども、経釈の往く路もしらず、法文の浅深をこころえわけたることも候 はねば、さだめてをかしきことにてこそ候はめども、古親鸞の仰せごと候ひし 趣、百分が一つ、かたはしばかりをもおもひいでまゐらせて、書きつけ候ふ なり。かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺 地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、 なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。外見ある べからず。 P--855 #2流罪記録  後鳥羽院の御宇、法然聖人、他力本願念仏宗を興行す。ときに、興福寺の僧 侶、敵奏のうへ、御弟子のうち、狼籍子細あるよし、無実の風聞によりて罪科 に処せらるる人数のこと。 一 法然聖人ならびに御弟子七人、流罪。また御弟子四人、死罪におこなはる るなり。聖人(法然)は土佐国[幡多]といふ所へ流罪、罪名、藤井元彦男[云々]、 生年七十六歳なり。  親鸞は越後国、罪名、藤井善信[云々]、生年三十五歳なり。  浄聞房[備後国]澄西禅光房[伯耆国]好覚房[伊豆国]行空法本房[佐渡国]  幸西成覚房・善恵房二人、同遠流に定まる。しかるに無動寺の善題大僧正、 これを申しあづかると[云々]。遠流の人々、以上八人なりと[云々]。  死罪に行はるる人々  一番 西意善綽房  二番 性願房  三番 住蓮房  四番 安楽房 P--856  二位法印尊長の沙汰なり。  親鸞、僧儀を改めて、俗名を賜ふ。よつて僧にあらず俗にあらず、しかるあ ひだ、禿の字をもつて姓となして、奏聞を経られをはんぬ。かの御申し状、い まに外記庁に納まると[云々]。流罪以後、愚禿親鸞と書かしめたまふなり。 #1歎異抄   [右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善の機においては、左右なく、こ れを許すべからざるものなり。]                            [釈蓮如](花押)